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TATS紀行  馬 の 旅 
   -北大生 山川君と2頭のドサンコ馬の沖縄までの日本横断の旅-
 平成27年1月1日

 新年あけましておめでとうございます。
昨年は、午年であったのに馬に乗る機会が少なくて残念でした。さあ、今年はと・・・・・・・
友人の田畑さんからの年賀メールが来て

「石井さん 新年明けましておめでとうございます。良い年を迎えられたことと思います。
本年もよろしくお願いいたします。私も元気にしております。」

 ドサンコで日本縦断中の山川青年は、宇都宮から木曽へ抜けて西へ行ってしまいました。東海道を通るのなら会えるのかと思っていましたが、チョット残念でした。 大学の馬術部や各地の乗馬クラブに世話になりながらの旅のようですが、たまには野宿もして風邪をひいて寝込んだりもしているようです。
 若いのに多くの人達と接するのも大変だろうなと感じます。 気ままな私にはとてもできません。・・・・」


 そうか 山川くんが、北の稚内からドサンコ馬で沖縄までの旅を始めているのは聞いていました。しかも、日本各地にまだ在している在来馬を調べる日本縦断の旅という素晴らしいテーマも持っている。



 日本の在来馬は、皆小柄でカッコよくないポニーです。TVの戦国時代の合戦で武将を乗せてワーッとやったこともあるかもしれないけど、ほとんどは輸送手段や各地の農作業、運搬に重宝されてきた人々の貴重な仲間であったはずです。北国の南部藩では、曲屋という同じ屋根の下で暖房?なり、糞は肥料、生まれた子馬は江戸の博労町へ売って貴重な財源になっていました。
 在来馬は、日本の文化です。北から北海道和種馬(ドサンコ)、木曽馬、野間馬、御崎馬、対馬馬、トカラ馬、宮古馬、与那国馬の8種類もがまだ今の日本にいるのです。

 かくいう私も昭和43年7月にドサンコ“竜”のおかげで北海道横断をやれました。

[日記より 8月18日 (日) 小雨のち曇り  濃霧 ]
 お世話になった森本君宅を出発。彼は何度となく車で追ってくる。大楽毛を過ぎ、釧路近くになる。鳥取に5時40分入る。家に電話を久しぶりにした。兄妹皆と話す。湿原を6時から歩く。ヤケチがつづく。牧柵がつづき、乳牛 肉牛 重種馬がいる。ともかく行けども 行けども湿原がつづき、一本道がつづく。暗くなって、道が見えない。
 やっと1時間半後に番小屋があった。老人がいたが、病気だから泊められないという。よし、温根内まで行こうと決心。3時間後、9時半に着いたはずだったが、それにしても家がだんだん無くなる。暗くても 竜は歩く。懐中電灯で先を照らすと止まってしまう。
バイクの人が来た。町はないという。気の毒だからどこかを世話してあげようとのこと。10時半 やっと雑貨店で泊まれた。 今日は 9時間 46kmだった ]


だから 卒業論文は「北海道和種馬(ドサンコ)」  
この馬のおかげで馬を知りましたし、歩く速度や高さから北海道を見られたし、応援してくれる人々の温かい気持ちをいただきました。

 連絡をくれた田畑さんは、もっと凄い。
 昭和44年7月にそれまでろくに馬に乗ったこともなかったのに北海道函館市役所へ行って「ドサンコを売ってくれる人を紹介してください」  北海道縦断をやりとげてしまった。
彼の日記から [・・・・・・帯広を出発したのはもう八月の後半でしたが、十勝清水の農場に泊めて貰い日高までの日勝峠越えをしました。 この道路は開通したばかりの砂利道で、途中ほとんど車には出会いませんでした。一日で50 キロの峠超えをしましたが道産子馬は実に健脚だった。峠へ向かう道路からは十勝平野が雄大で、この日が旅のハイライトだった。日高町の公園で野宿。次の日の途中で出会った人の紹介で道産馬を平取の軽種の牧場に譲り旅を終えました。
その後 1973年にはスペインの南部のヘレスからラ・マンチャのエル・トポーソまでの1200㎞をスペイン馬で歩いた。
でも、何といってもタベルナスの荒野を馬で走ったことが素晴らしかったと本に書いてありました。

 我々の40余年前は、舗装道もないところや飼い葉にも、連絡する手段も寂しいものでした。
現在は、山川君を応援するにも彼が旅の様子をブログ(http://horsejourney.blog.fc2.com)にしています。

山川くん ドサンコのみっちーとゆきちゃん に怪我が無いよう気をつけてください。
    この旅は、君にとって人生の栄養になるよ。 是非 やりとげてください。
    それから もっと馬が、ドサンコが好きになるから

                          TATSコーポレーション  石井 達馬

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