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TATS紀行  鹿児島 妙円寺詣り 〜チェスト 関が原〜
                           2007.10.28
慶長5年(1600)9月15日西軍が負けた関が原には島津薩摩勢のみが取り残こされた! 
島津義弘率いる兵は600人あまり、その中には義弘公に加勢するために鹿児島から無断で駆け参じた侍たちも多くいた。
ここで逃げては、全滅は必定。
義弘公は決断し、薩摩勢は一気に徳川本陣を敵中突破して郷へ帰る戦いをした。


徳川勢の追撃を退きつつ、山中を駆け抜け三日三晩戦いながら、堺の港までの200余kmを艱難辛苦の末、義弘公を守って僅か80余人が薩摩に帰りついたのでした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この藩主義弘公を偲び、鹿児島城下の武士たちが9月14日の夜半から菩提寺の妙円寺(現在の徳重神社)に鎧兜で参拝するようになったのがこの行事の始まりでした。
薩摩隼人の心身の鍛錬として往復40kmを夜中徹して歩き参拝する行事は今に至り、各地から妙円寺を目指して、幼稚園児から老人までが隊列を組んで関が原の苦戦の歌を歌いつつ行進してゆく姿は見事なものです。会場の境内では、多くの旗がなびき、武道大会(剣道、銃剣道、弓道、相撲、空手道、柔道)が行われ、太鼓の音も断つことなく響いています。
私の母は、東市来町の生まれで<郷士>の家系の薩摩おご女です。
そして、先祖には西郷ドンを加勢すべく、刀をもって馳せ参じた重信熊太郎は政府軍と戦い処知られず斃れ、刀のみが戻ってきたと伝わる<薩摩の血>が私にあることを誇りにしています。
まず 先祖の墓参りをして、私もそこから妙円寺を目指して歩き始めました。
温泉の町「湯の元」は真っ直ぐ平らから薩摩焼きの里「美山」へのキツイ坂道に入りました。
11kmの道のりの中間の「秋甫窯」で一休み。山を下って畑を両面に見ながら伊集院へ。 先を歩く人がいれば、帰ってくる人となんとなしに会釈。嬉しくなりました。
町に入れば、ウオークラリーで老若男女が笑顔を讃えて神社への道へ。
私もお参りがかないました。母にご先祖様に報告ができます。
夜は年配の従兄弟たちと芋焼酎を酌み交わしながら、「来年ち、皆で行かんとですか」「ジャッドナー!」

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